LongView NO.179





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八月の光

 アメリカの大統領選挙で、黒人系のバラク・オバマ候補がやや有利な闘いを進めているそうです。比較的、人種差別意識のない現代の日本人はあまり意識しませんが、このことにアメリカ社会の大きな変化を見ている人は多いと思います。思えば、黒人の公民権運動を率いていたマーティン・ルーサー・キング牧師が暗殺されたのが1968年、50年前です。ほんの2世代前にもならない時代には、黒人を同じ人間と見ない白人が大多数だったのです。それくらい50年間の変化は大きいのですが、それでは、さらに、その50年前にはどうだったのか。ウィリアム・フォークナーの小説『八月の光』がそれを示してくれます。


 1920年代の貧困と宗教戒律、人種偏見に満ち溢れたアメリカ南部の街、ジェファーソン。逃げた婚約者を追い求めるアラバマの田舎娘リーナ・グローヴ。やさしく、気の弱いバイロン。世間から隠れて生きる牧師のハイタワー。リーナから逃げまわるだけのルーカス・バーチ。豪邸でひとり暮らす中年女のバーデン。そして、その中心にいるのは、職をもとめて放浪する、見た目は白人だが黒人の血をひく孤児のジョー・クリスマス。彼とそれをとりまく人間たちが、濃密で、深い闇のような感情と人間関係をもつれ合わせていくなかで、巨大な渦がゆっくりと回転するように時間がすぎ、やがて凄惨な殺人事件がおきます。それはこの小説時間のなかでは予想された事件であり、当然のようにジョー・クリスマスはつかまり、リンチを受け殺害されます。そして最初の登場と同じように、陽気なリーナ・グローヴの旅が始まるところで物語は終わります。


 黒人の血をひきながら、見た目は白人の孤児というジョー・クリスマスの二重、三重に複雑な生い立ち。多分、これは百年前の南部アメリカでは決定的なことだったのでしょう。また、こういう主人公を設定することが、人種差別という一見わかりやすい問題の根本に、人間の存在にかかわる、単なる見かけ以上の深い何かがあることを示すためにも必要な状況だったのだと思われます。最初にもどると、確かに表面的には、アメリカに黒人系の大統領が生まれるかもしれない現状は100年前には考えられないことでしょう。(しかし、すこし深く見てみると、中南米や中近東民族に対する新たな差別が生まれ、また、オバマ氏がアメリカ上院議員で唯一のアフリカ系黒人であることにも示されるように、実はみかけの上でも差別がなくなる日はまだまだ遠いようです)また、この小説に示されたような人間の不可解な行動は、いまでもどこかで起こっているのです。この小説がもつ本当の価値は、そこにあると思います。


 ただし、『八月の光』は、哲学書でも心理学の本でもありません。無類の面白さを持つ小説です。それぞれに圧倒的な存在感を持つ人間たちが織り成すこの物語は、読むたびに私たちをその中に引き込む不思議な魅力を持っています、


 私の印象に残っている場面がいくつかあります。


 冒頭、製材所で働く人たちの前に風のように現れるジョー・クリスマス。多分、この時代には、こんなふにして各地を放浪して歩く男たちがいたのでしょう(スタインベックの『怒りの葡萄』はその10年ほどあとに出ますが、社会状況は似ています。ちなみに禁酒法の時代です)。この登場の仕方がとてもうまい。何度も読み返しましたが、そのたびに感心します。


 深夜、ミス・バーデンの屋敷に忍び込んだクリスマスは食堂に自分のための食事が用意されているのに気づく。彼は、それをすべて床にたたき落してしまう。そして最後に暗い家の中で、床に落ちた食べ物を手にとって口に入れる──。


 自分を理解しようとし始めたバーデンを殺し、家に火をつけ逃げるクリスマスは、行く先々で人々が自分を恐れているのを感じている。ある男女から奪った車に乗るとき、彼は自分が大きな銃をもっているのにはじめて気づく──。これも逃亡しながら、クリスマスは川のそばの草むらで髭をそり始める。ポケットからかみそりを取り出し、水たまりに写った自分の顔を見ながら髭をそる。まるで社会への参加儀式であるかのように──。


 もちろん、これは私の個人的な趣味で、これらの場面が特に重要ということはないと思いますが、こんな箇所をあげていくときりがありません。こうして、八月の光のなかで、静かに悲劇と喜劇が進行していきます。Light in Augustとは、真夏、特に八月のミシシッピで年に数回あるという不思議な光に満たされた日のことだそうです。日本でも晩夏になると、地上は夏なのに空や大気だけが秋になっているという日がありますが、そんな感じなのでしょうか(私はこの言葉に、暑く乾いていながら不安に満ちた静かな雰囲気を感じています)。


 個人的なことですが、私は、真夏。ことに暑さが頂点を迎える昼間、厳しい陽差しの中を歩いているとき、私は、かならずといってよいほどこの『八月の光』という言葉を自然に思い浮かべています。小説の強烈な印象と「真夏」そして「八月」という言葉が私の中で結びついて存在しているようです。


 小説的技巧という意味では、まず、心の動きをあらわす内的独白があります。ときにあらわれるこの独白で、小説時間の進行は止まり、一人称の文体は読む者を一気に主人公に感情移入させます。使い方はかなり難しいと私は思いますが、これが、この小説の強い印象の理由のひとつになっていることは確かです。この内的独白部分は原文ではイタリック体ですが、日本語版ではゴシック体になっています(日本語にも欧文のイタリックに相当する一種の軽い書体がほしい!)。


 次にやはり大きいのは、複数の物語が同時に進行していく形式でしょう。それぞれの物語の中で、登場人物はお互いに関係するようでいて、最後まで関係しなかったり、思いもかけない方法でかかわったりします。これはフォークナーの究極的に描きたかったものが、ひとつの時代やひとつの街(地域)であり、その中で展開される人間の営み、いってみればひとつの小世界であるということを示しているように思えます。


 作者であるフォークナー自身、まるでこの小説のジョー・クリスマスのように、数々の職を転々とし、激しい肉体労働をしながら小説を書いていた時期もあったそうです。そして、自分の作り出した架空の町=ジェファーソンを舞台に、アメリカ文学という枠をはるかに超えた、この不朽の名作を完成させたのです。

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