自費出版の豊かな世界 その11

失われた戦前の豊かな学校教育の成果


 戦前の学校教育を受けた世代、中でも旧制高校卒業世代が高齢化しています。戦前の教育というと、私たちはすぐに、いわゆる「軍国教育」を思い浮かべますが、これは昭和一〇年代後半から一気に激しくなったようで、それ以前には「大正デモクラシー」の雰囲気を残し自由な気風のある学校も多かったようです。 >
 『 下学上達の歩み』の著者・>安田春雄さんは、一九二二(大正一一)年、鹿児島県生まれで、土地柄もあり、大自然の恵みと独立・自由な気風に囲まれて育ち、また、中学卒業後は、この時代でも、全国で唯一、全寮制度を採用し、古き時代の旧制高校の良き伝統を色濃く残していると伝えられていた旧制水戸高校(茨城県)に入学します。まさに、こうした戦前のスタンダードな教育を受けた最期の世代です。

 この本は、その後、敗戦で進路を変更し、天文学者として長く研究生活をおくり、現在、東京大学名誉教授である著者が、こうした自分を作り上げてくれた戦前の環境と学校生活に感じる限りない共感とノスタルジアを綴った自伝です。自らつけたそのサブタイトル─豊かな自然と歴史に恵まれた城下町での戦前の人間形成教育賛歌─に、その万感の思いがこめられているようです。

 鹿児島の茗家であり、家族もすべて高等教育をうけているという当時としては非常に恵まれた環境で育ち、かつ才能に恵まれた著者の語る戦前の学生生活は今の私たちから見てもうらやましいものがあります。また、旧制高校という制度は確かに一部のもの(経済的に恵まれた階級の男子だけ)しかいかれないということはあるにせよ、全寮制で「創造的な人間像を確立する事を目標に生徒を修業させ、生徒自身の人格の完成を教育の主眼とし」「授業そのものより生徒が自主的に自らの人格を知的に高め、教養を身に付ける過程を、教育の一貫した主流として重視した。また、哲学・倫理等にも十分に時間を割当て」「実学的要素は皆無だった」という教育理念は現在にはないものです。

 大正生まれは無口です。多くを語りません。しかし、安田さんはこの本の最後にこういっています。
「このような厳格な人間教育を受けた大正世代の人間である我々なればこそ、過酷な第二次世界大戦を戦い、戦後の食糧難や闇市時代の生活苦とも戦い、その後の戦後復興の第一線に立ち、今日の日本の繁栄を築けたと確信している。他方大正生まれの我々は何処かロマンの香り漂う竹下夢二の描く美少女の姿を心の奥深くしまい込み、「命短し、恋せよ乙女」の歌に凝集された大正ロマンを心に秘めて、戦前教育の成果をさらに実りあるものにできたのではないかと思っている」
 安田さんが、八〇歳を過ぎた今もテニスを楽しみ、豊かな精神生活をおくっていらっしゃるようです。夢に出てくるのはおそらく本書に書かれた二〇歳ころまでの思い出なのでしょう。